色々作業が終わるとね、
そのままパーっとって訳には行かないのが辛い所。
何を隠そう、隠してなんか居ないけど。
バックアップ作業が残っている、のよ。
セッションデータでDVD-R×2
ミックスデータでDVD-R×2
T/DバウンスデータでCD-R×1,HDD×1
音楽CDでCD-R×2
エラーの少ないメディアを研究して選んだ選りすぐりの、
DVD-R、CD-Rでメーカー違い2種類づつ残すのです。
そうすると耐久性の問題とかで片方のメーカーが壊れても、
もう一方は大丈夫かも知れないからね。
これだけやっても、実際に必要な時がくるのか、どうか?
それは解らないのだけど。
製作会社や、ディレクターが管理してくれる所もあるのだけれど、
やっぱりそれでもバックアップは取っちゃう。
「そこまでやる必要無いよ」と云ってくれる人も居るのだけれど、
物凄い自分の気持ち込めて作った一つ一つの音のデータを、
失ってしまうのは、とても寂しいと思う事なのでしょうか。
バックアップしながら、その製作の日々を色々思い返すのです。
一体俺は何してるんだろね。
完成した時は勿論、充実感、達成感、そうゆうのは感じるんだけれど、
その何倍も「喪失感」を感じるのです。
これも、我輩だけかもしれないけど。
何だろうな?
「思い出」ってみんな持ってると思うけど、
話し難い「思い出」もあって、時間が経つと、
人にも話せるようになってて。
話す時は思い返しながら話すよね。
そうゆう思い出を「思い返す」って行為に、
作曲って凄く似ていると自分では思ってるの。
「上から降りてくる」とか神がかった事云ってる人も中には居るけど、
んな事云ってる奴はホントに自分で作れんのか?疑問だわ。
作っているのでは無くて、既に自分の中にある物を、
思い返して居るのじゃないかな?と思う。
完成形を知ってるから、自ら「違う」とボツにしたりもする。
陶芸家が茶碗とか皿とかイメージと違うと、割っちゃうぢゃん?
あれって、作った物に対して自分で評価して○×決めてんぢゃなくて、
もう既に完成形が頭の中にあるから、そうゆう判断できるんだと思うの。
普通に勿体無いって思うけど、でも、その人の頭の中のイメージは、
その人しか見られないから、作ってる側からすると、その頭の中と違う物は、
他人に見られたり、聞かれたり、そうゆう事自体許せない。だからボツ。
そんな篩にかけて作った曲だから、
聞かせた時に共感してもらったら、嬉しいと云うより、安心する。
やっと話せた恥ずかしい思い出だって、
鼻で笑われたくないもんね。
「わかるわかる」って云ってくれたら、安心する。
「だからダメなんだよ」なんて云われたら、
「ぢゃぁもう話さない!」ってなっちゃう。
「ぢゃぁもう曲作らない!」ってなったら、仕事無くなっちゃう。
何の話や。
あぁそうそう、
でも中には誰にも話さずに、
墓まで持っていく思い出だってあるはず。
話したとしても、真意までは云わないとか。
そうゆう事を話しちゃったら「喪失感」あるでしょ?
なんかそれに近い。
あぁまた変な事思い出した。
誰にも云わずにずっと隠してた僻を、
この人ならいいかな?と思って、
「誰にも云って無い事なんだけど・・・」って付け加えて、話した。
そしたら後日、人前で普通にそれ云われちゃったんだよね。
悔しいって云うより「こんなやつに話さなきゃよかったー」って、
後悔と、喪失感。
で、何の話や。
あぁそうそう、
だからバックアップとるのかなぁー?って。
ん?ハショリ過ぎて解らない?
だから、
音って、手にとれないぢゃん。
気持ちとか思い出もそう。
日記とかも、云ったらバックアップ作業だよね。
その時にしか感じられなかった事、の文字による記録。
また読み返す事があるのか?その必要性があるのか?
それすら解らない、でも、書く。
写真を撮ったり。プリクラ撮ったり。
楽しい作業のようで、なんか悲しい。
その人の気持ちはどんな事しても記録できない。
だから意味なんて無くても、必死で記録をとる。
何気ない風景写真、他人には綺麗な景色にしか見えなくても、
撮った本人には、涙を流すほどの景色かも知れない。
だから気持ちの詰まった、形のない音を、
必死で形に残そうとバックアップを取るのかな?
面倒臭いけどね。
気休めかもしれないYO
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